ネットで小説を書いている人間が駄文を連ねる場所。

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 己に害を為す者に対しては、何らかの対処を講じるべきである。


 テレビニュースで猫の殺処分問題をやっていた。増えすぎた野良猫の糞害などが酷く、捕獲と殺処分を自治会が決定。回覧板の内容がネットで物議をかもして、すげぇ抗議が来たとか。
 極々、個人的な感想をいえば「仕方ない」に尽きる。まあ、殺された猫に罪は無いのは確かだが、罪が無いから殺されないならば、豚も牛も鶏も特に罪は無い。魚も羊も。何の罪も無いと思う。

 そもそも、動物に対して何を以って罪とするのであろうか。人間の法を適用するのであろうか。
 仮にそうだとすれば、糞尿を私有地以外で垂れ流している時点でアウトであるし、そうでなければそもそも罪という概念を適用するほうが間違っている。
 「他者へ害を為す行為」と位置付けすることも可能かと思ったが、ならば糞害という実害が既にある以上、罪があることになってしまう。

 まあ、どっちにしろ罪という概念を適用するのが間違いだろう。掲示板で罪が無い猫を殺すなという意見も書かれていたようだが。俺個人の意見としては、糞尿を垂れ流すのは動物の立派な行動のひとつであるから、特別に罪にあたるとは考えていない。ただし、それは「他人に迷惑を掛けない」という状況においてのみ成立する。
 どんなにイイコト言っても、五月蝿すぎれば迷惑だ。己にとって必要な行為であろうと、迷惑を掛けたら怒られる。それが社会だろう。

 良いのか悪いのか、ヒトが地球という惑星の実質的な支配権を獲得してる現状、ヒトの都合で他の動物が振り回されていることが多い。
 食うために育てたり、可愛いだけで飼われたり、飽きたら捨てられたり。別にゴキブリもネズミも自分達が悪いことしてるなんて考えたこともなかろう。ただ、そこにいられると困るので、ヒトは排除しにかかるわけだ。
 それを悪いことだとは思わない。だって、家の中にネズミいたら嫌だもん。命の重みが同じであり、対等な立場であるとすれば、俺は先んじてその場所に居た者として、既得権益を確保するために攻撃をする。
 何か間違えているだろうか。別に世界中のネズミに悪意を持っているわけじゃない。俺の家の中を病原菌持ち歩いてウロチョロして、こっちの食料を食い荒らす、間違いようのない敵に対してのみ攻撃するだけだ。別にそれが猫でも犬でも、何でも容赦せん。
 ちなみに我が家の縁の下に住み着いた猫は、ネズミ捕りという偉大なる成果を果たした存在である上に、特に五月蝿くしないので放置している。利害が一致した存在ならば大いに受け入れる所存だ。アシダカグモもG退治に一役買っている、我が家の仕事人である。彼らとは仲良くするが、こちらに害意を持って攻撃を仕掛けてくる場合はやっぱり容赦せん。

 閑話休題。害を為す存在に対して、対処を講じねばならない。生活の為の、実に正しい理屈であると信じる。
 去勢や不妊処理も結構なことだと思う。それで済む話なら、それでいいはずだ。俺は去勢されたら死にたくなるが、いきなり殺されるよりは幾分マシ……だろう。人生の楽しみの一つは減るが、生憎と他にも楽しみはある。
 生殖行為を否定して、生物の尊厳を守れるのか、という問題もあるかもしれないが、そこは割愛。長くなりすぎる。
 まあ、とにかく対処のひとつとして、去勢不妊はいいと思う。ただ、そこに殺処分が入っていても、特に不思議だとは思わないということだ。
 去勢しようが、糞尿が止まるわけではないというのが大きな理由だ。数年後に数が減ってるかもしれないが、数年間、悪臭や悪い景観に耐えねばならない。
 ちなみに、「耐えればいいじゃないか」という反論が出来そうであるが、実は出来ない。なぜならば、耐え切れない状態まで来たので殺処分に踏み切ったからだ。耐えて済むレベルならば、世の中のヒトは大体、耐える道を選ぶ。だから日本は大規模な災害の後でも、略奪などが横行しなかったのだ。共存方法を模索しないはずがない。そして、共存不可能という判断を下したからこそ、この結果なわけだ。当事者でもない人間が無闇に反論するのは、その場で被害に遭っている人間のことを考慮しなさすぎだと思うわけだが。

 まとめると、こうなる。
 害を為す存在に、対処する必要がある。害とは猫の糞尿による悪臭など。つまり糞害である。
 その糞害を現状で最も効果的に取り除く方法が殺処分である。
 既に耐えられるだけ耐えて、他に方法が無い(と考える)。
 実行する。
 
 理屈上、俺は特に問題はないと考える。倫理や宗教については、この段階では一切考慮しない上でだ。




 さて、理屈だけの話で済まないのが、動物愛護精神である。理屈でやってる人間が少ないので――というのは冗談にしても、感情的な側面があることは否定できないと思う。生態系などを考慮して、その先に不利益を蒙る。または、何かしらの危機が訪れると考えた結果、というのも可能性として存在するが、個人的な見解では、感情論が大多数を占めている。
 別に悪いことじゃない。可愛いものを愛でるのは当然のことで、何ら不思議ではない。俺も可愛いものは好きだ。
 可愛い存在をこの世から消すのは、確かに悲しいことだ。殺さずに済むなら、そうしてやってくれないかと思う。
 だが、可愛い可愛くないで命を判断することが、果たして動物愛護であるかと問われると、首を傾ぐ。
 鼠を殺してもいいが、猫を殺すのはダメ。それを自分自身の矜持としたり、家訓にするのは別に構わんのだが、その精神を他人に押し売りするのは正直なところ、醜態としか言いようが無い。
 猫も鼠も殺すな。ハエも蚊もダメ。のほうが、まだわかる。
 ちなみに俺は先述の通り「自分達に不利益を与える存在には対抗する」というスタンスだ。部屋の中の蚊は、痒みを与え集中力を途切れさせる存在であるからして、情け容赦など考えるまでも無く叩き潰す。あいつら、追い出すことが出来んので。
 猫が部屋に入ってきた場合、戸締りが甘かったことを反省しつつ、外に追い出す。猫だから特別扱いではない。そういう対処が最も自分にとって都合が良いからだ。幸い、縁の下の友人(友猫か?)は土足厳禁であることを知っているのか、或いは俺の部屋に入る理由がないからなのか、姿を見せることは無い。(戸締りしてるし)

 さて、話を戻そう。というか、感情論に移行する。
 そもそも不思議なのは、なんで猫がかわいそうと思うのに、そこに最初っから住んでた人々をかわいそうと思わないのか。この一点に尽きる。
 考えてみてほしい。今回の事例で言えば、最初から野良猫が大量に居たわけじゃないだろう。捨てたのが人間であり、猫たちが被害者であったとしてもだ。被害者だから関係ない人間に迷惑を掛けて良いなんて理屈は存在しない。
 ちょっと妄想も入れようか。一年に一度の誕生日を祝ってもらっている五歳児がいるとしよう。母親は腕によりをかけて料理を準備して、父親もプレゼントを買って早めの帰宅を果たした。
 満面の笑みで料理を頬張る息子という一幕を期待していた両親にとって、糞害による悪臭は悲劇でしかない。彼らにとっては猫が容疑者で、自分達が被害者になる。
 あくまでも例であって、適当に考えたシナリオだけどさ。要するに俺たちに猫の命を奪う権利がないのだとすれば、猫にも五歳児の幸福を奪う権利は無いということだ。
 両者、立場の違いにより決裂である。そして、両者の現在の立場とは、人間が圧倒的に優勢である。身体も大きければ道具も使い、おまけに先住者で建造物というナワバリ主張までやってるわけだ。ヒトが住むような場所に、長年苦労して改造したわけだ。
 巣作りですよ。安心安全な環境作りは人間に限らず、ウサギも魚もやってるわけだ。数が多いのと集団性と、知恵と技術を進化させまくった人間が巣を作り、排他的なフィールドを形成させたわけですよ。

 まあ、猫が人間に直接的な危害を加えるかと問われれば、よほど近づかない限り引っ掻いたりはされないだろう。猫も身を守るために必死であるから、この場合は近づいたほうが悪い。
 ただまあ、人間も動物だ。悪臭漂う場所で生活はしたくない。多寡が悪臭と思うかもしれないが、気分悪くなって体調崩すこともあるし、排泄物は単純に有毒だ。
 もっと言えば、公園の砂場なんかが猫のトイレ化してることが多く、寄生虫がたくさん存在するという事例もあるようだ。幸福な一夜を奪われたならまだしも、病気となれば洒落にならん。
 夜行性の猫は夜中に鳴く。縁の下の友人も稀にこれをやって、俺の不興を大いに買ったことがある。鼠撲滅キャンペーンの立役者という恩義と、俺の部屋の真下であり、隣家への影響が無いこと。また、隣室の親父の歯軋りのほうがよほど不快であったという様々な事情から「まあいいか」で済ませているが。

 そりゃ見知らぬオッサンと、子猫とさ。写真見せられたら猫のほうが可愛いけどさ。でも、オッサンは何も悪いことしてないのに、悪臭や夜毎の鳴き声に生活を脅かされている被害者だとしたら、オッサンを応援するさ。猫を飼ったことがあり、オッサンを飼ったことはないけど、基本的に俺は同種族の方を大切にするようにできているようだ。
 ああ、あくまでも個人的な感情で猫>人間になることはある。
 大嫌いで、殺してやりたいと思うほどに憎いヤツと、自分が飼っている猫が同時に溺れていたら、猫選ぶかもしれない。ついでに嫌いなやつに「ザマアミロ」とか内心で笑うかもしれない。そんなに憎いヤツなんて出会ったこと無いが。
 あくまでも、見知らぬオッサンと見知らぬ猫の場合。つまり、自分に直接関係しない存在同士で、どちらかを選ぶときの指標である。



 ちなみに殺処分という対処法そのものを是としていないことだけ追記しておこう。
 俺も小学校の時分は「命は地球よりも重い」という旨の発言を何度も聞いており、地球が無くなれば命もクソもねえだろうと思いつつも、「そんだけ命っつーのはスゲーってことか」と、ある程度の真意を汲み取っていた、小賢しいガキであった。
 そうして培った俺の倫理が、奪う理由が無い命まで奪うのは嫌だと言っている。だから、殺処分という方法を採らずとも良い状況になればいいのに、とは思う。
 ただ、現状でそれができんのがわかってるから、せめて猫の糞や鳴き声に苦しみ、なんとか窮地を抜け出そうとしたところに動物愛護の精神から、散々批難されている住民や自治体を擁護したいと思ってしまったわけだ。

 あと、ただ猫が好きってだけで、他所の土地の事情も考えずに抗議する阿呆共が何より気に食わなかった。
 可愛い=正義っつーのは、二次元での話だから。無責任すぎるから。
 これだから常に感情優先で、モノ考えない人間は嫌なんだ。冷静に、どうして殺処分という、誰が考えたってやりたくない手段取ってるのかを考慮しろよ。
 苦慮して、心苦しくもありながら、決断を下した人間のほうが、よっぽど命について考えてるんだよチクショウ。
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